字駄楽ト界

Life is a jest,

書店は何を売る店か

書店の減少に歯止めがかからない、という記事をがある。

引用の記事はその原因を、論拠を提示するでもなく「若者の活字離れ」と「海賊サイトの台頭」に決めつけているあたりが救えないのだけれど、ひとつ面白い指摘があった。

去年出店した新規大型書店の8割を、ツタヤ母体のCCCが占めていること受けて、

ある書店チェーンのオーナーは、「本屋を維持しようとすればするほど、商材が本から離れていく」と嘆くなど、抜本的な解決策はまだ見いだせていない

という。

実際に、延岡という駅のでかい蔦屋書店に行ってきたことがある。

その建物はなんと手動改札の駅を中心として直方体が左右に広がっているデザインで、向かって右の棟の1Fにスタバ、2Fに蔦屋書店。左の棟には1Fに土産物屋、2Fに市民スペース(郷土資料等がメインの図書室のような施設)が入っている。

まず言いたいこととして、この建物、本が少ない。正確に言うと、私の知っている本屋や図書館と比べて本の密度がとても薄い。
というのもこの場所はあくまでも喫茶店がメインであり、オシャレに配置された椅子とテーブルと雑貨の隙間を縫うようにして背の低い本棚が置いてあるにすぎないからだ。
そして第二に、市民スペース(図書室)の本が借りられない。これは私が訪問客だからではなく、そもそも借りる機能がないとのことだった。

じゃあそもそもこの建物は一体なんなのかと調べてみると、「延岡でいちばん自由で多様性がある場所を目指」すそうだ。
「誰もがいつでも訪れることができ、自由な時間を過ごすことができる場所」らしい。
いかにも地方自治体の予算を動かしやすそうな文言ではないか。

しかもこの建物、全面ガラス張りのモダンな造りで確かに超オシャレなんだが、だからこそ周りを囲む青息吐息な商店街から完っ全に浮いている。
周りに昼食を食べる店すらない中、その巨大でオシャレなガラス窓(日光が本にあたり放題)から見える景色の合わないことと言ったら。

確かに利益を目指すならこれでいいのかもしれないが、これは焼き畑農業みたいなもんで、本来の書店のユーザである「本を読むのが好き」な人を増やせるんだろうかという疑問を感じた。

話は変わるが、前にテレビで神奈川県大和市にある日本一人気の図書館を紹介していたことがある。
番組は保育園、ヨガ教室、市民ホールでの歌謡大会といった「地域のコミュニティ活性」としての側面を大きく紹介し、図書館というよりは図書機能の付いた複合施設の利点について述べるものであった。

同じような事例を考えてみると、例えばドラッグストアが大規模になるにつれその調剤薬局の要素は相対的に縮小していく。ではなぜ、売り場面積の比が1割にすら満たないのに、そのお店は「ドラッグストア」を名乗るのだろうか。

調べてみると医薬品の利率がとても高いため、日用品を売上度外視で売っても問題ないから、だそうだ。つまり薬以外の品はそれを買わせるためのエサであって、だからそのお店は「ドラッグストア」を名乗っている。

対していま日本で最も人気の大型書店は、本以外を売ることで収益を得るビジネスモデルを持っているという。
これ、ちょうど真逆ではないだろうか。薬で稼ぐから、薬局と名乗る。本は売れないけれど、本屋を名乗る。

ではなぜ、「カフェ/雑貨屋」ではなく「本屋/書店」を、「市民センター」ではなく「図書館」を名乗るのだろうか。

きっとそれは「本」という単語自体に存在するブランド力ゆえだろう。本の歴史はあまりに深く、というより歴史自体が本に従属されているわけだから、その一単語が持つ文化力は無限大だ。だから、本を扱ってますよ、本を貸しますよ、というのは無条件で高尚に聞こえる。

つまりOX法律相談所とかいう番組を見る人が一切法律知識の獲得を期待しないのと同じように、これから「物理的な本の流通」は少なくなって、代わりに格調高さの象徴として「書店/本屋/図書館」は機能するんではないだろうか。

ハイソな屋号としてのみ本屋が残る、そんな未来。