字駄楽ト界

Life is a jest,

最近は何かと物騒ですから

まっとうな人、というのはフィクションに多くを求めない。かれらは自分の人生に地に足つけてちゃんと愛したり怒ったり悲しんだり笑ったりするから、フィクションにとくべつ複雑なものを期待しない。わかりやすい悪役が出てきて、わかりやすいヒーローが倒す。それで満足だ。
けれど私みたいな、どちらかというとフィクションのために生きている人間は、それじゃ不満だからより刺激のある、先鋭なフィクションを求める。

まどか☆マギカの劇場版を100円レンタルしてそんなことを考えた。この作品はフィクション同士の衝突を描いたものじゃないか、と。

さて。この作品の主人公まどかは「魔法少女」になれると言われてどんな衣装がいいかスケッチしたり、一つ願いをかなえてあげるといわれてもみんなのために戦えるだけで満足と答えたりする『古典』的な人間である。世界に絶望してたり非日常を求めたりしていない。

対して、QBに代表される世界観はかなり『現代』的だ。
これはつまり、魔法少女モノだから敵は都合よく涌いてきます、なんて設定じゃ現代の視聴者は納得してくれない。くれないので、「宇宙の熱量的死を回避するためエントロピー増大則に従わないエネルギーである相反する感情を集めにきた」なんていうお題目をもってくるくらいポストモダンである。
よって、演者は古典で演題は現代、という奇妙なフィクションが生まれることになった。だからまっとうな登場人物の皆さんは非常に苦しむことになる。

例えば、ふつうの『古典』的・ニチアサ的魔法少女モノでは登場人物は死なない。それ以前に、衣装に傷がつくことから禁止されているらしい。だから、まどかは人が死なない世界にアジャストされて設計されている。けれど、まどマギ世界は「エヴァ以降のゼロ年代」仕様なので人類が滅ぶことくらいは想定内だ。だから割と序盤で仲間の一人の首が飛んだり、親友が魔女になったりする。そして、そんな現実をまどかは最後まで受け入れない。

その対立の果てに、この作品はまどかを概念にまで昇華することで世界を『古典』的なフィクションに近づけるというところで幕を閉じる。QBを滅ぼすでも、魔法少女自体を無くすのでもなく、ただ魔法少女が魔女になる、その過程を消滅させる。
つまり、あのにくったらしい「敵役」であるQBは本質的な敵ではない。QBの登場を望む私のような視聴者こそが、あの世界にとっての一番の敵なのだ。