字駄楽ト界

Life is a jest,

死を想う

オランダで24歳女性が安楽死を認められたという話を呼んだ。
かの国では18歳以上の安楽死だけでなく、治らない病でひどく苦しむ場合などを鑑みて、未成年のそれも認めているらしい。
この記事を読んでなにより驚いたのが、彼女はそのような余命宣告をされた病人ではなく、希死概念に取りつかれているが肉体的には健常な20代の若者だった、という点だ。
私はこのような制度に対し「生きていればいつかいいことが」的な批判したいわけではない。どちらかというと賛成である。
だが、「肉体的には健常な20代の若者」が自由意思で死を選べることが前提となった社会というのは一体どういうものなのか、恥ずかしながら想像がつかない。

ここ日本で道路を歩くと結構な密度でマンホールがある。それを私たちは知っているが、その地下に暗渠が広がっていることを想像する人は少ない。つまり私たちは都市に排水や電気が流れる薄暗い地下があるなんてことを意識しないで生きている。それと全く同じように、こと日本では死というのは大凡無限遠のかなたにあるものとして意識から除外されていると思う。
対してオランダという国では、人生の期限を、lim->∞ ではなく、0<=x<120 かそこらの変数として扱っているわけだ。日常として死をそばに置く社会。メメントモリ

あの国では性教育にしても麻薬にしても随分あけっぴろげと聞いた。
特に、末期的なヤク中には政府が安価に薬を与える、なんていうのは嘘か本当かはさて措くとして一つの最適解ではないだろうか。
対してよく日本は先送りと事なかれ主義の国なんて言われる。国民ジョーク曰く、Japanese に Yes or No? と聞くと返ってくるのは or だという。ちなみにこれが最近の日本人像だそうだ。
私もそういうタイプだ。はい/いいえではなくウィンドウの閉じるボタンを押す。多分、私の周りもそうなのだろう。
意思疎通が不可能になった祖父が、それでも胃婁と介護施設のベッドを用いて生き続けていたのは、選択肢のデフォルトがそうだったからに過ぎない。決断を先延ばしにして、その間に何かが起こることを期待するわけだ。

判断という行為は苦痛を伴う。大きな決断であればなおさらだ。その痛みを受け入れる社会を構築するにはいったい何をすればよいのか。
むこうの社会が理想だととは思わないけど、その風景は素直に憧れる。